たいそんの日記

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なみのね

断絶力の進行は とかく速度が凄まぢく 気付かない内に肥大してゐた。
汚らしいその膿を吐き出すか如く 君の悪言だけが部屋中に木霊する。

おうい 君は いつになったら 消えてくれる
おうい 君は いつになったら 死んでくれる

知らないうちに知らない人がどんどんと堕ち魄れていくその姿に
自分を重ねることに 震えた日曜日
知っていてなお知らない振りをしてはどんどん老いさばらえていく
かつての情熱を湯煎して 乾かして 荼毘に付し 喪に服す。
誰も俺を解ってはくれないのだ・・・。

陽が沈むのを じいと眺め さて、俺は果たして
この生涯の 今際の際を どうやうな顔面で迎えるのかと
小一時間 いわんや小二十二年間 考えてゐた。
答えは 出ず柵に足を架け 噎び そして
女の顔を ひとしきり思い出す。
みな 醜かつた。 みな 百足のやうに
ごすごすと 地を這つてゐた。
風が吹き荒ぶ。
俺は いわば 海流に 飲み込まれ 太平洋に その身を 置く
惨めな あまりにも 惨めな 物質であつた!
漂泊。それだけが 正しく 人を 生かす。
力のない 俺に それは その響きは
チヨコレイトより 甘く きだるい なみのねだ・・・

おうい 君は いつになったら 消えてくれる
おうい 君は いつになったら 死んでくれる

すがる 足首すら 俺には 一本も無かつたのだ
ゆつくりと ゆつくりと ゆつくりと
誰かが 俺を 殺さうと 今夜も 刃を 研ぐのである

2013/11/26 深夜



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  1. 2013/11/26(火) 02:44:40|
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冬の万華(ばんか)

 毎晩夜になるとああブログ書かなくちゃ、書かなくちゃと思うのだけど
もっともらし(くもな)い理由でもってパソコンを開かずじまい。
きもちを言葉にするのにはそれ相応の時間が要るらしく、
だんまりキメこんで無精髭をいじくる毎日です。
処狭しと放り投げられたままの焼酎各種の空き瓶を
ぼくはひとつも踏んづけることなく。
かくして、である。

 家にいる間はだいたい小説を書いている。
誰に見せるのかもわからないくだらない小説を延々書いて
やあ今日は二頁も書けたぞ、酒だ酒持ってこいと
ひとり荒ぶっては、翌日
わあこんなくだらない二頁なんて死んだ方がマシだと
デリート一発もってしてゴミ箱へ。
それでももうじき出来上がりそうな新作短編「絵里香」を
いちばん最初に誰に読んでもらおう、なんて甘ったれたことを考えながら
喉元をアルコールに浸している。

外にいる間はだいたい短歌を詠んでいる。
意味が成り立っているのかも怪しい短歌を延々詠んで
ひゃあ今日は二首も詠めたぞ、肴だ肴持ってこいと
ひとり舞い上がって、例によって例のごとく翌日
ぴゃあこんなくだらない二首なんて犯した方がマシだと
脳内デリート一発もってして胎内へ。
それでもぼちぼち溜まってきた短歌たちをどこか投稿してみようかしら
うまくいきゃあ、金一封でも貰えないものかしら、なんて低俗なことを考えながら
足元を泥水に浸している。
言葉で稼いだ金はぜんぶ言葉に変えるのが良い塩梅だと最近は。

 別れのやうなものがあったり、出会いのやうなものがあったり
人いきれの中をすり抜けるようにして
日々を抱きしめていた。その抱擁に形はなくて匂いもなくて、ひょっとして未来も無かったりして。

 今日ほど、飴玉を持ってなかったことを悔やんだことはない。
そうするとあの女の子、5歳くらいのあの女の子の
怯えきった泣声を聞かなくてすんだかもしれない。

今朝のことだった。
ぎりぎり満員電車にカテゴライズされそうな乗車率の車内で
ぼくの目の前に幼い女の子と母親が乗り込んできた。
女の子の手にはみかんが握られていて
食べる、というよりも眺めるといったニュアンスが多く含まれていた。
みかん、オレンジ色で綺麗だものね。
発車してすぐ、イレギュラーな揺れのために
女の子はみかんを床に落としてしまった。
残念そうに拾って埃を払うような所作を見せた後
母親は「きたないからね、ないないしようね」と
ポケットティッシュを取り出し落ちたみかんを包んだ。
それが悲しかったんだろうか。女の子はぐずりだした。
「んーん、んーん」と地団駄を踏む。
そしたら僕の真横に立っていたおじいさんが
女の子の背中をばしっと叩いて
「うるせぇ!この野郎!」
びっくりした。
人一倍臆病で、己の影にすら戦慄するとはいえ一応大人の僕でさえ
普通に驚くボリュームだった。
当然女の子は泣きだす。怯えておいおい泣きだす。
母親も子供がぐずっていた手前、言い返すこともできず
「すいません・・・」と言いながら子供の背中をさすっている。
こわかったろうな。
今日ほど、飴玉を持ってなかったことを悔やんだことはない。

 ギターの糸が切れてしまっていて明日にでも買いにいかなくちゃいけない。
僕の住んでる町にギターの糸を売っているところは
自転車で十五分ほどのところの大型ショッピングモール内のちんけな楽器屋しかないのだが
どうしても今日はそこまで行くのが億劫だった。
一度家に着いてしまうと誰にも会いたくなくなる。


 ポールが日本に来ていた。
どうせ大したことねぇよあんなのもうジジイじゃん
と強がってはみたものの本当はそりゃ行きたかった。
しかし今の僕に壱萬七千円を算出する余裕はどうしても無かった。
今となっては強盗でもすれば良かったと思う。
たぶん人生単位で見ても相当に贅沢な時間だったはずなのだから
たとえ逮捕服役の期間を鑑みても強盗でも十分割に合ってたかもしれない。
 
 「京セラドーム」で「ポール・マッカートニー」となると
僕にはどうしてもピンとくる人がいる。
僕にビートルズを教えてくれたあのひとのことをどうでも思い出す。
人づてに「行ったらしいよ」と聞いた。
よっぽど連絡して感想を聴きたかったが
迷惑になると困るのでどうしようもない。

 いずれにしても今回行けなかった僕にもう
ポール及びビートルズを語る資格は無いだろう。
逆にいっそ嫌いにでもなった方が幾分すっきりするのでは、と思うものの
棚から引っ張り出してきた(それも思いっきり海賊盤の)ビートルズからは
嫌いになれる要素がひとつとして無かった。

 僕が人生で初めてライブというものをしたとき
演奏したのは『She loves you』だった。
へたくそすぎて正確には『She loves youらしきなにか』だったけれど。
三百人近い観客の中で歌った光景を今でもよく覚えている。
ぼくのビートルズは終わったのか?
いや、きっと始まってもなかったのだろう。
たらればを語るほど情けないものも無いが
もし今度ポールが日本にきた時は
強盗よりもっと悪どいことをしてチケットを購う。
それを人は労働と呼ぶらしい。

 東野圭吾の『白夜行』を初めて読んだ。
帰りの電車の中でクライマックスを迎えていた。
読書は終わり方が大事だと思う。
理想としてはその本に合った音楽をかける。
そして読み進め、最後の一行が目を通り過ぎたとき
ぱた、と音楽が終わるというのが実に良い。
耳じゃなく肌に音楽を浸らせて、ある種の同一化を図ったのちに
我々が暮らす現実社会が眼前に広がりだすのはなんとも心地が良い。

映画を見た後外にでると決まって妙な気分になるでしょう?
あれみたいなもんだよ。

 それの、言ってしまえば応用版が電車である。
没頭して、没頭して、没頭して
終文が目に焼きついた瞬間、降りる駅に着いて
ぷしゅー…とドアが開く。
あれも、なかなかオツである。
しかしそれにはうまくタイミングを合わせなくてはならないし
かといってタイミングを合わせることに集中してしまうと
特有のカタルシスを得ることはできない。
あくまで、たまたま読み終わったときたまたま目的地についた、という体でなくてはならない。
今日はそれができなかった。
あと八頁というところで目的地に着いて
仕方なく駅のホームのベンチに座って読了した。
しかし車内の気だるい暖房の中で読むより
凛とした冬の空気に包まれたまま物語を終えるのは
『白夜行』の特質として正解だったかもしれない。
すこぶるおもしろかった。

 唯一持っているスニーカーがいよいよくたびれてきて
常に踵が見えている状態である。
本当に装飾品というか、身につけるアイテムを持っておらず
また買いに行ったとしてもずらっと並んだ商品を見ていると
えもしれぬ恐怖感がたちどころに湧きあがってきて
そんなところに店員が気安く話しかけてくるのだからたまらない。
最近はインターネットで買い物ができるというので
パソコンをがちゃがちゃやってみたがさっぱりわからず
この飽食の現代において僕の身なりは尋常じゃなく貧乏くさい。
実際、貧乏なのだからどうってことはないのだけれど
かっこいいブーツを履き散らかしてる若者を見ると
うらやましいとはまではいかないが
どうやってああいうの買うんだろうと不思議に思う。

 わりと本気でナルシストなのではっきり言うが
どう考えても僕の顔面は平均以上のルックスである。
いわゆる“今風”の“イケてる”服装と髪型をやれば
たちまち女の子たちは股間を濡らすに違いない、はずだ。
それが、こんな、果てしなくくだらない対物恐怖(及びからくる対人恐怖)の性格が災いして
時としてぼくはその見た目をして化け物呼ばわりされてしまう。
目の肥えた人たちからは、ありがたい言葉をいただくこともある。
「ちゃんとすれば、ちゃんとなりそうなのにね」
それは逆を言えば現状“まったくちゃんとできてない”という
裏付けになってしまうことはこの際置いておいて
それにしても、女というのはどうしてこうも見る目が無いのだと
二時間は説教したいところである。
こう見えてぼくは六歳くらいまでその愛らしい言動と顔つきで
「なにわのキムタク」と呼ばれていた男である。
それが現在ではタクはタクでも“宅八郎”と呼ばれる始末には
いささかの憤りを覚える。
てめぇらのような心のブサイクな連中に愛されたいとはこれっぽちも思わないが
ぼくは常にちやほやされたいのである。
ジュース飲む?とかごはん食べる?とか伺えよ、くそったれが。
と思いつつも、客観的に確かに
こりゃ宅八郎だなと自分でも思わない瞬間が無いわけでなく
先日友人宅に(宅ばっかりだな)置いてあったマジックハンドを持って
鏡の前に立つと、自分でも信じられないほど宅八郎に激似であった。
自分で自分にドン引きするなんてそうそうある機会ではなく
その場は青白い笑顔で誤魔化したが
自宅(また宅)に帰ってからふごふごと嗚咽を漏らした。
僕の両親は僕のことを今どういう風に思っているのだろう。
それを思うと、また涙が出てきた。
淡々とした口調で書きすすめているが僕はもうべそをかきそうだ。
優しくしてください。優しくしますから。

 戯言はさておき、冬がどんどん冬になっていく。
人肌恋しい夜も無きにしも非ず、だが
基本的にずっとひとりぼっちで生きてきたのでさほどさみしくもない。
(余談だが恋人がいる人に聞きたいが、抱き合って眠るのは暑苦しいことこの上なくないか?最初の五分くらいで十分だと思うぞ)しかしテレビの調子が悪いのはいただけない。
なんか受信レベルが下がっているとかで映らない。うんともすんとも言わない。
昔ながらの「叩く」でもって回復を試みようとしたがいかんせん薄型なので
叩いた心地がしない。もはや手刀であった。
僕と外界を結ぶ数少ない娯楽だというのにこれはどうでも悲しい出来事だ。
対処方を聞こうにも機械に強い友人が皆無なのでどうにもならない。
テレビが薄型になるとともに僕の人間関係もどんどん軽薄になっていくようだ。
直してくれたら、缶づめをあげます。

 さて、随分長ったらしく書いてきたが
もうじきに終わる。ブログも一年も。
出逢いと別れ、なんて言葉は四月の専売特許だろうか?
そんなことはないぞ、一期一会、袖擦り合うもなんとやら。
毎日出逢って、毎日別れてる。
さみしからずや。なほ遠くなりにけり。
僕はずっとここにいるだろう。魂だけがあっちこっちに行くのみだ。

 この文章のすべてを風間やんわりに捧げる。


またね、からだをだいじにね。
だいたいそんな感じ。たいそんでした。








  1. 2013/11/19(火) 06:00:14|
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